残響の名前(ハンドルネーム)の由来


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2017年08月11日(金)

●「残響さん」#1

はぁ自分は残響っていいますけど、この名前ってそもそも自分で名乗ったわけじゃないんですよね。人から言われて定着した略称、あだ名、ってやつです。this is...this is あだ名......(このくだり必要ありませんね)

自分がネットにカキコもとい書き込みをし始めたのは(これを言い直したのは現状2017年のなうではカキコなんつう言葉がインターネッツ古代語に属するからです)、おおよそ2008年あたりからなんですが、その時にじゃーハンドルどうすっぺ、と、約20分考えてつけたのが「近代衣服の残響」っていうハンドル名なんですね。

「近代衣服の残響」
おい文章かよと。その枕詞はなによと。
多分当時、なんらかのシュール系のアート表現にハマってたのだと思います。たしかマックス・エルンストのコラージュ画集みたいなのの文庫版(『百頭女』とか)を漁っていた記憶があります。
そんな「人にハテナな違和感を与えればそれはもう価値なのだー!」式のトリックスター思考をヴァンヴァン働かせてつけた名前が「近代衣服の残響」でして、当然ながらこういう名前に、なんらかの意味とか由来とかはありゃしません。語感とインスピで生まれた言葉ですから、人にそこんとこの由来を問われても「さぁねえウフフ......」とこたえるほかはありません。やっかいやなー

んで、そんなんでハンドルネームを決めて、都合1.5年くらいはインタネッツで活動をしていたわけですが、だんだんとしんしんと雪が降り積むように指摘されるようになったのですね。
「アナタの名前は読みにくい、呼びにくい」
って。
実際のところこれって結構インタネッツ日本人心理距離感としては、言い出すのに勇気がいりますよね。人様の名前なわけですし。相手が「ぬるかん」だの「ギルティおこめ」だのいう名前でも「否」を告げるのはさすがにためらう。
でも、複数の方々が勇気をもって「アナタの名前は長くて呼びにくい」と告げてくれるようになり、さすがにこの名前がちょいとアカンのではないかと考えました近代衣服の残響さん。っていうかこうして打鍵してみて、改めて思ったけど、確かに書きにくいは呼びにくいわ、で大変ですねこりゃ。ああ、告げられる9年前の真実......ポストトゥルース......(意味をわからずに言っています)

(そのころ付き合ってたネットの人たちとは今も付き合っています。自分にとってとても大事な友人たちです)

そんなわけで、人からは縮めて「残響」って呼ばれるよになりました(ありがたくもわたくしに許可をとっての縮め)。そしていつしか自分も「残響」と名乗るようにしました。2009年の終わりから2010年あたりからかなぁ。今、「近代衣服」の名残があるのは、自分のTwitterアカウントや、ブログアカウント、百合機械HPアドレスであるところの「@modernclothes24」ってとこですね。そこだけですね。未練があったのかどうかは知りませんが、とりあえずこの英字文字列を自分の英字ハンドルめいたものにしてます。

さて。一応残響ということに自分の名前をしまして。先の苦言(読みにくい......)を呈してくれたネット身内だけでトークしてる分には、一向に問題なかったこの残響という名前。
その後、自分がテリトリー......というか活動・交流範囲を、ネット身内の他にも求めるようになっていったのですね。例えば音楽評論とか。例えばエロゲー批評空間界隈のクラスタとか。そこで気づいたのですが、「残響」って一般名詞、よく使われるのですよ。
例をあげるだけでうへぇ......とおもうのですが、
「残響リファレンス」(One OK Rockのアルバム名)、「残響レギオン」(少女病のアルバム名)、「残響レコード」(インディーズレーベル名)、
「雨き声残響」(ボカロ曲名)、「エフェクターの残響が......」(音楽機材でよく使うワード)、
「残響系エフェクター」(音楽機材ワード)、「残響のテロル」(アニメ名)............

......オーマイガー。自分が適当に付けた名前でも、「〇〇の残響、とは違う残響さん」というふうに人から紹介されることが多くなりました。
さらに言うと、自分以外にもこの「残響」という名前を使ってるネットユーザーやクリエイターのひとがいるっていうらしいです。同名他者なこちらの意味でも「〇〇さんとは違う残響さん」って紹介されるのを耳にすることがありましたから。

あーあ。
もちろん一番悪いのは適当そのもので名前を付けたわたくしにあるわけですが、かれこれもう7年以上も「残響」で通してきたから、今更変えるのもなぁ、っていうところです。
それはそうと、今になってようやく「雨き声残響」っていうIA(ボカロ)の曲を聴いてみたわけですが、いい歌じゃないですか。多分この曲のタイトルつけた作者のひとは「残響」って言葉にけっこうな意味を持たせている、大事な言葉だったんだなぁと思います。喪われ虚空に響いている音感覚(残響)のあとで、一気に世界が変わるようなPV/曲の演出なんかひとつ考えてみるにつけてもね。

それに比べれば自分の残響っていう名前の適当さは、名前負けしてるわなぁと思うのです。

●名の意味性

深みのないところに残響(一般名詞)はないわけです。残り響く、というのはそういうことです。喪失感であったり、響きの余韻であったり。
そう、「あの響き」があまりに鮮烈だったからこそ、余韻が確かに聞こえて切ないのです。悲しいのです。誇りすら感じるほどに。

そーんな意味性を持つ残響っていう一般名詞をハンドルとしてかれこれ7年は経ちましたが、さてねえ。これはもう名前負けってやつです。
深みがない自分っていうのは自分にとって一つのテーマかもしれません。「自分は深い人間なんだぜ」というところで自分のアイデンテテーを思っている自分ですが(恥ずかしいなぁ)、そう思ってる時点で自分の薄っぺらさを感じ取ってはいるのですね。薄暗いところでいつも感じているのさおれの薄っぺらさは。

だからまあ、お前は軽薄なんだ、とか、お前は薄っぺらい深みの無い人間なんだ、と指摘されて、ギャーとムカっ腹を立てるわけですが、その反面「そうなんですよ......」と薄暗闇に存在する自分はパチ......パチ......パチ......とやる気のない拍手を死んだ目で行うわけです。

まあ人がどう思うかはいいや。
自分がどう思っているか、っていうことに語ろう。

長い年月を名前と共に過ごすと、もう自分の名前の意味性ってものを考えはしませんよね。
皆さんの本名であったり、ペンネーム、ハンドルネームであったりも、それ相応に何年も同じ名前だと、もう慣れ切ってしまって、考えることもなくなります。己の名前こそに本質的意味があるんだー!という文学者・思想家・哲学者・神学者であってもなー。

でも、名前ってもともとどういうものだったんでしょうかね。呪いのようになってる人も居れば、自分にはこの名前あってないなぁ、と思うひともいれば。それでもこの名前と共に生きてくほかないんだから、せめて「〇〇って名前にふさわしいようになれればなぁ」って思えればその人はすげえ立派ですが。なかなかそういうふうにはなれんよね。

ああそういえば、自分の名前っていうのはこういうものだったのだなぁ」っていうふうに、ふと星が邂逅するかのような時折さで思って、うーんうーんと頭をひねって。その時の夜空がずいぶんきれいだったなぁってことを感じて。それでまた、明日からの生活でそこらへんを98%は忘れてしまって日々を生きて、また星が邂逅するかのような時折さで自分を思ってみたりして。

ガラクタに囲まれて生きてますよ我々は。その山のようなガラクタには電柱とかガス灯とかがあったりして、夜になったら優しい光を放つんだ。空気は妙に澄み切っていて、明日世界が終わるなんて言われてもそーんなに不思議には思ったりしないほどの。そこに独り、ぽつんとたたずんでいます。
「自分の名前」というのを考えるにあたって、心に想起したのはそんな風景ですね。水彩画のように夕暮れが薄らいでいって、宵の藍色が迫ってきて。星はぽつぽつと輝いていて、なんだかボヤケた風景です。時間性なんてものはありゃしないなぁ。

自分の生命が、生きた証が、ガラクタかって? まあ他人にしてみりゃあそんなもんかもしれませんが......


●「残響さん」#2

それでもまあ、自分=残響さん、としてかれこれ何年も生きてきて。リアルの自分よりも「残響さん」は交流の幅は広いし、深いし。リアルおれ:ネット残響、の比率が、だんだん後者が大きくなってきますね。
それがいいことなのかどうかはわからねど、自然にこうしてきちゃってるんだからしかたあんべえ。人生なんてそんなもんだ。

時たま思うのが、ハンドル名をそのまま敬称なしで呼びあう付き合いのひと達っているじゃないですか。
ところが自分は、どこに行ってもありがたくも「残響さん」なんですよ。皆さん敬称をつけてくださる。ただ、それはどこかで、距離を置かねばというか、「アッこいつには迂闊なこと言えんぞ」というあたりの敬称(距離とり)かもしれませんが、まあ。
それにしたって、敬称をデフォルトにしてくれることはありがたいですが。

あまり気にすることもないですが、さりとてこちらからサーチを働かせているわけでもないので、「残響さん」がどういう人なのか自分でもわからないのです。自分で自分のことがわからない、ってアタシ変よね......ヘンだよねアタシ......うわあぁあぁん!!(少女漫画感

というか、未だに自分のことがよくわかってないからこそ、こうしてネットに乗せる文書を書いてます。瞑想をする代わりに、文章を書いて自分を見つめてみる。

「残響さん」は誰かにとって何かの意味を持つ存在だったのかな? って改めて思うくらいには、自分の残り人生も少なくなったか、とか、自分もヤキが回ったか、とか。っていうかお前さん自分自身についてしか語ってないな......。いや、まあわたしはいろんな他者よりも、基本的に自分自身に興味がある人ですし、残響は。ナルシーですね。
だから自分の書いた文章には、とりたてて皆さんに与えられる価値って、「ない」と思ってます。
それでしかし、たまーに誰かに好意的な反応を頂くと(最近、何回か立て続けにあった)、「えっ?(後ろを振り向く」ってな感じで、残響自身のこととはあんまり思えなかったりする。自分を見つめて自分に対する答えを探ってるような文章が多くて。この「名前の由来」テキストなんてそのまんまですしね。

ともかく、前にもどっかで書きましたが、自分のことをあまり考えず、自分について調べていけたらな、っていうか。わかってくれよぉ的な自分語りは醜いけれど、「ええと......自分は自分のことがよくわかってなくて、ちょっと書いてみます」っていうのは、まだ罪が少ないように思える。というか「知らんわ」度合いで言ったら他者の理解も自分の理解も「知らんわ」で同一なんだから、別にいいか的な。

残響自身には、こういう文章は自分自身では面白い(自分にとっての意味がある)けども、さてどうなのか。
少なくとも、ここから何かを見出せたあなたがいたとして、あなたの知性と感性はほんと凄いと思います。こころから。



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