残響は、2016/12/11に、それまで続けていたTwitterをやめました。
その理由についてここでは書いております。
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その後、格好悪いですが、2017/01/01に突然twitter復活しました。
すいません、お騒がせしました。
「SNS疲れた」(第一回)
(2016/12/11)
今のところ、「
残響(黒帽子)」Twitterアカウント……@modernclothes24ですが、
削除はしません。
一応、DMのメール通知だけは活かしておきますので、何か連絡があったら、わかるようにはします。
Twitterというツールが、今のネット時代、facebookと並んでパワフルなツールであることは、
未だ持って「その通りだ」と思っております。
ただ、残響個人の感情として、飽きた。疲れた。
2009年の12月、ちょうど今頃からはじめたTwitterですが、
その間、残響にしては多くの人と知り合うことが出来ました。
そして、様々な有益な情報を得ることも出来ました。
Twitterというパワフルさ、まさに「その通りだ」と認識して余りあります。
その代わり、何かが積もり積もっていった。
「大勢のひとの交差点」「感情の交錯」
みたいな状況に、疲れてしまったみたいなのです。
Twitterで知り合うことのできた方々の多くは、基本的に自分よりも頭がよくて、
そして感情のこまやかな人たちでした。
少なくとも、こちらに向けていきなり切りかかってくる、ということは、そんなにありません。
だから、誰かの言葉が引き金になって、このような疲れになった、ということでもないのです。
天使のラッパが吹くような、愉快な出来事にもお目にかかれました。
その反面、内ゲバのような醜悪さにもお目にかかれました。
それだけの出来事にお目にかかれた、というのも、
残響自身がパワフルなTwitterというツール……
いや、Twitter言説空間に、どっぷり全面的にハマりこんだからだと言えます。
そう、ぼくは、Twitter言説空間に、基本的に、好ましい感情を抱いておりました。
この言説空間を、自分のリアルのサブセットとしていました。
常に……
いつしか、自分の中に、「Twitterのみんなはどう思うかな」
という思考回路が作られていきました。
それがいつだったかは、覚えていません。
気づいたら、いつもTwitterのみんなが、脳内にいました。
脳内に……妄想という形で。
(つづく)
「SNS疲れた」
(第二回 妄想、いじめ、お前程度の人間が)
2016/12/12
たぶん、馬鹿にされるために生まれてきた訳じゃないと思うんですよ。
たぶん。自信ないけど。
残響はたびたび、TLで「持病」がある、と発言してきました。
かれこれもう闘病生活13年くらい経ちますけど。
ぶっちゃけると、この持病とは、精神病・神経症の類です。
まあ隠してこなかったけどね。実際ちゃんと名言してきましたし。
より詳しく言うと、
・統合失調症
・強迫神経症
・アスペルガー障害
の三つどもえです。最近はさらに、
・発達障害(ADHD)
であるらしい、というガチ気味の診断がされています。
(対・ADHD薬のストラテラを毎日投与するようになりました)
このトライアングルな症状を、緩やかに推移していってる感じです。
たとえば10年前は、ガチガチの強迫神経症で社会生活送れないリアル廃人になってましたし、
今は強迫はおおむねなくなっていますが、しかし、
「○○しなかったらクズ!」的強迫思考に苛まれていて、常に自信がありません。
昨日の文章(第一回)の続きでいえば、自分がこの半年間マズいなーと思ってるのが、
統合失調症的
「妄想」です。
なんかね、こう、何かが囁いてるような感じがするのですよ。
ある時ふっと、その「声ならざる声」が聞こえてくる。質量をもって。
twitterを長くやるようになって、いつしかtwitterのフォロワーの、
「TLのいつもの面々」が、頭のなかに居るようになりました。
この時点で妄想です。
そして、妄想上の「妄想TLの面々」が、ささやきをブーストするようになっていきました。
実際の「TLのいつもの面々」は何も発してはいないのに!
いつも、「妄想TLの面々」の眼差しを感じるようになりました。妄想です。
とくに、自分が人生に絶望しているとき、病気がひどくなってるとき、妄想の面々の眼差しを感じます。
きっと自分が自傷したり自殺したりしたら、彼らはネタにして喜ぶんだろうな、という「確信」。
囁く声が聞こえます。「Its'残響自殺エンタテイメント!」とかって。
そしてTLのみなさんがキャッキャ言う声が聞こえるのです。
この時点でだいぶヤバい状態なのですが、もうこういう状態が半年以上続くと、
それがどんだけヤバいか、っていうのがわからなくなります。
繰り返しますが、誰一人として、「TLのいつもの面々(現実)」は、
リアルで残響にこうした呪文めいたことを発してはいません。
すべて残響の「妄想」です。
それでも、こうした妄想とり憑かれ状態でtwitterをやるのは、自殺行為に等しい。
だから、自分はtwitterをやめよう、と思いました(
理由その1)
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なぜこんな妄想が出てしまったか?
もちろん残響の病気が原因です。
ただまあ、twitterのネガ部分、というのが、この妄想と何らかの共鳴をしてしまった部分もあるかと思うのです。
TLで、何度となく(加害者・被害者・コミュ/クラスタ・パターンを変え)、
ぼくは、同じ形の
いじめを見ました。
「いじめのようなもの」と書こうとしましたが、あれはいじめの定義そのものでしたから、
「いじめです」。
簡単に言うなら、
「いじめる対象に、何らかの叩いていい理由が出来たら、
【公共の正義】の名でもって、人格の根っこまで叩いてよろしい」
というものです。
ぼくも、その片棒をかついだこともあります。
だからぼくも加害者です。薄汚い。
その被害者の声にならない報復が、周り回って残響が苛まれる妄想になった、
というのなら、納得出来ます。科学的ではありませんが、倫理と仁義のスジは通っている。
……加害者さんの「一理ある」ということはわかっていますが。
それでも殴られたら痛いんですよ。
だから、いじめは、この世から未来永劫無くならない、と悟ったのが、twitterライフの教訓のひとつです。
いじめをヘイトする論をツイートで何度となく並べる方々が、同じ口、舌、言葉で、ほかの誰かを激烈にいじめている。
そして当人はそれにさっぱり気づいていない。
きっとそういう、twitterのネガに、長く触れていたから、ぼくの妄想が共鳴したのでしょう。(
理由その2)
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「おそらく次の対象は残響なのだろうな」
そして、その通りになったこともあります。
ある時突然、楽しくぶん殴られたり、楽しくバカにされたりしました。
ぼくは、基本的に自分に自信がなく、また自分の知識量・知恵の量も少ないと思っているから、
なるべく「自分以上」の人の発する声には耳を傾けようと努力していました。
長いスパンでならしてみれば、それが一番残響自身を「よりよき残響」へと導くものだ、と信じて。
TLの方々は、ぼくより頭がよく、心がこまやかだ、と書いたのは、そういうことです。
少なくとも、「自分は完璧でこれ以上耳を傾けなくていいんだぜぇ!」と称するバカにはなりたくなかったから。
でも、その結果、こうして妄想に苛まれるようになったのは、またタイプの違ったバカであったということです。
我慢し続けた、というのとはちょっと違います。
「これは必要な勉強なんだ」と思いながら、
必要な知識だけを抽出しようとした。
意見における事実性と、感情や煽りとを、ごっちゃにするのは、
またそれもそれで知性の少ない行為だと思っていたから。
ーー複数のひとが言ったことが、何回かあったのですよ。
面と向かって「
お前程度の人間が」って言ったことがね……!!
半ば冗談だったかもしれない。
でも、どういう文脈であろうとも、その言葉にはちょっとぼくは耐えられなかった。
もちろん、残響に至らない点は山ほどありましたし、
判断も知識も未熟でした。バカにされる理由はいっぱいありました。
その上、残響のもともとの病気&人格は、自分に対する肯定感・自信というものがありません。
自分がバカだと本気で思っているから、そのバカさから上に這い上がりたかったのですね。
それに、リアル(現実空間)においても、バカにされることには慣れています。
残響は発達障害(ADHD)ですから、「ふつうの人」とズレた行動をしがちでした。
そのたびに、まわりからバカにされてきました。
その経験だけは、TLの多くの方々よりも、量が遙かに多い、と思えます。
バカにされたりしたときに、それをサラりと表面上は受け流すコツを覚えて、一応現実では対処しております。
ネットでも、TLでも、それを適用してきました。
……でもさ、バカにされながら殴られたら、やっぱりいろいろ痛いよ。
受け流すたびに、「そんなことのために生まれてきたわけじゃない」、
と痛切に思っていたのを、自分でもひた隠しにしながら。
赦す・赦さないの判断で言ったら、絶対に「赦す」なんですよ。
だっていろいろな大切なもの、知識、知恵をもらってきたから。
ただ、もう、ちょっと耐えられなくなったのです。(
理由その3)
(つづく)
「SNS疲れた」
(第三回 「善きもの」のpost)
――――それにぼくにはやりたいことがあるのです。
それは
オリジナル創作。
twitterをやっていては、その「本当にやりたいこと」が未来永劫出来ないから……
……というのが、今日の「SNS疲れた(第三回)」で書こうと思っていたことです。
それは何ら間違いではない。
ぼくの心の内に強固にそびえ立つ世界塔です。
薄暗がりの雲の暗い地平に立つ世界塔……。
ですが、それよりもまず、ひとつ書かねばならぬことがある、と思いました。
それを書かないことには、スジが通らないというか、
自分が行ってきた「ある種の罪めいたっぽいもの」が明らかにならないから。
(とくに、今日読んだ、
橙乃ままれ「ログ・ホライズン」の最新更新回をきっかけに、以下をつくづく思って)
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ようは、残響と言うTL上のtwitterアカウントは、傍観者でありました。
「当事者」でない。
ぼく自身が、「なんかTLが善くなること」に積極的に荷担したか、というと、
「それはない」。
ただTLを見つめ、時折コメントを挟むだけの存在でした。
「誰もがTLの善き方向に向かって尽力すべきだ!」論をぶつつもりはありません。
そこだけは勘違いしてほしくなく思います。
TLというのは、
自然地帯です。サバンナに似た。
そこで弱肉強食のいじめ(第二回参照)が起こるのも、当然ではあります。
ぼくが思うのはその醜さに対する嫌悪感だけで、「いじめが起こる」こと自体は自然であります。
「自然」は、善でもなければ悪でもありません。「ただそこにあるもの」です。
ぼくがサバンナというのはそういう意味合いであって、何かを断罪するつもりはないのです。
さてその上で。
ひとつのアカウントに対する興味関心……
……即ち、好悪、リプを送りたくなるか否か、フォローしたくなるか否か……
……は、当然ながらそのアカウントが、これまでつぶやいてきたツイートに基づきます。
というかツイートそのものが、そのアカウントそのものです。
何かをツイートという形でpostすれば、それは水面に広がる波紋のように、
何らかの何かをTLの面々に対して及ぼします。
それが「おはよー」「おはありー」の応酬であっても。
ただ「おはよー」「おはありー」よりももっと強い主張が、そのアカウントの個性を決定します。
それは政治論かもしれないし、萌えを的確に短い言葉で表現することかもしれないし。
あるいは百合警察芸かもしれんしねw
そして、各アカウントは、折りに触れて、
「
善きもの」をpostしていたからこそ、ぼくはアカウントをフォローしたわけです。
ぼくがフォローしたアカウントは、「このひとはなんか面白いぞ」という基準でしたが、
その中核にはまぎれもない個性としての「善きもの」があったわけです。
前回(第二回)、「理由その3」で書いたように、ぼくを殴った複数のひとだって、
TLに「善きもの」を数多くpostしていってたわけです。
そうでなくちゃ、おれ、その人たちと関わらんよ!
その複数の方々は、とりわけ特異な感性と、鋭敏な言語を持っていて、
ぼくが普通に見ていたものでも、黄金にあっさり変えてしまいました。
マイダス王の金の手とはこういうことか、と今になったら誇張抜きに思います。
ぼくはそれに惚れていたのだろう、と。
「果たしてぼくは、TLに何か善きものをpostしただろうか」
と思ってしまって。傍観者としてコメントするだけで事足れり、とするのは、
なんか「ぼくのあり方」として、こう、もにょもにょ感を感じてしまって。
百合観測者がオカシなこと言ってるぜ!と自分でも思いますが。
そしてさらに言えば、「TLに善きものをpostしなければならない」という戒律も、
サバンナ自然TLにおいてはないわけです。
それでも。
ぼくは、TLのいろんな方々が、サバンナTLに「善きもの」をpostしてくださって、
ぼくは勝手に受け取っている、という感覚を、長らくtwitterをやっていて思っていました。
ぼくが第一回で「twitterに対して好感を抱いている」と表現したのはそれです。
贈与の法則(ポトラッチ)まで話を展開するともう比較人類学なのでやめときますが、
TLの皆さんが「なんかくれた」という感覚を無碍にして、「TLでいじめが横行していた!」ばかりを喧伝するのは、
これもこれで仁義に欠いた行為だよなぁ、と、この「SNS疲れた」文章の方向性を考えたわけです。
みなさんは、みなさんであるだけで、TLに善きものをpostしていってた。
時に「もっと善いものをpostしよう!」っていう方だっていましたし、
「皆にこれ善いものだからシェアしたいなぁ」という
「本物のシェア(贈与)」を行っている方もいました。
だから、基本、ぼくの見たTLは、
「善きもの」が数多く交差する、感情の交差点でした。
その感情の交差が、時折衝突(コンフリクト)を起こすのであって。
それは、価値観と価値観の衝突ですから、避け得ないものです。
「善きもの」をpostする方々は、それだけ「当事者」であったわけです。
あるいは「その人自身がなんかほっこりするタイプの人」
という「その人自身が善きもの」であったかのどっちか。
そう考えてみれば、残響は、とくに何も皆さんに善きものをpostしていない……
という感覚が常にありました。
「ここに居ていいのかな、おれ。何もしてないけど」
言葉にすればそんな感じです。
だってぼく、傍観者ですもんね。
何かを自分からpostするんでもなく、
自分自身がひとをほっこりさせる奴でもなく(精神病=メンヘラですしね)。
まあそれもそれでよかったんですけど。
……でもさ、そのあり方って、「創作者」としてのあり方と違うよね?
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創作をするっていうことは何なんでしょうね。
もちろん自分のためでありますが。
しかし、自分が自分に対して「善きもの」を作り、
与えるということでもあります。「
作品作り」とはそういうことです。
であるなら、なおさら自分が「当事者」であることを恐れてはいけない。
少なくとも、「自分が自分に善きものをpostする」ってことすら恐れてはいけない!
……いや、どこかでそれすらも恐れていたんですよ。
自分は救われないから、って。何かをつくるのが面倒だから、って。
心に栄養を与えていかなかったら、しおれるんですよ。
そして、ぼくは傍観者として、TLのみなさんから「もらうばっか」だったから、
結局しおれてしまったわけです。
ぼくも、何かを作らなくてはならなかった。
「だったら、twitterを今は休んで、「なんか作れたら」復帰すればいいんじゃないの?」
というのが、まあまっとうな考えです。
でも、今はTLの感情交差に疲れて、しばらくはアレルギーが出るかも、というひどいエゴ発言です。
そのアレルギーが癒えるのがいつになるか、まだわかってません。
1年半は最低でもかかるかなぁ、過去の経験からして。
それよりも。
「作る」ことを第一にしなければなりません、今の理屈からいったら。
自分で自分に善きものをpostすることによって、
自分を回復させることを第一にして。
それには、今までぼくがTLのみなさんから受け取ってきた、
「善きもの」を今一度見直して、再確認して、そこから何かを作っていくことですね。
具体的には、
twilogや
favologの見直し。まずそこからはじめようかと。
というかこのHPでもやってる「
カチュノン妄想」もtwitterからはじまったことですしねw
結局、自分が楽しむ、というか。
自分自身にpostすることを楽しんでいれば、
きっと誰かも楽しんでもらえる、っていう素朴な信仰です。
これ、半年前に
「恋カケ」のえろすけ長文感想でも書きましたが、
まだ分かり切ってはいなかったみたいですね。
残響とはこの程度にオロカであります。
そんなことで、ぼくはtwitterをやめました。
twitterに疲れたけれど、残響というアカウントに関わってくださった皆さんには、
深い感謝があります。決して反語でも皮肉でもなく、こころから。
あなた方がいなかったら、ぼくもいなかった。
ただ、ぼくが勝手に疲れてしまっただけで……。
そして、皆さんがぼくに「勝手に」与えてくださった様々なものを、
今は、ひとつづつ思い返してみたいと思います。
それから、何かをこつこつ作っていきます。このHPとか、創作のほうのHPとかで。
それが、きっと皆さんに対する何かの恩返しでしょうし、
きっとどこかでそれが「善きものをpost」すること、となるでしょう。
twitterからは消えるけども、ネットからはまだ消えないから。
(このHPの記事を拡散してくれ!って
言ってるわけじゃ断じてないですよw)
ありがとう。
どこかで残響を見かけたら
(たとえばえろすけコメント欄とか、皆さんのブログコメント欄とか)、
またお話してくださったら、とてもうれしいです。
残響(黒帽子) @modernclothes24
「SNS疲れた」おしまい