レッズ・エララ神話体系 中世篇「時雨とエヴィル」シリーズ
(英語サブタイを語頭縦読みしてはいけない。それは所詮掲示板文化......)
原案:小西(原テキスト)
編集:8TR残田(アカウント管理人)
乾いた道の上で、剣聖少女時雨ちゃんと、鎧に身を包んだモサい中年男が相対してる。
白g......もとい銀髪の青年は暇そにしてる。
自分のことを何らかの熟練者と抜かす奴は大抵中級止まりなのだが。
そこはまあ、人間30歳も過ぎると、新しく心打ち抜かれたりとか、己の技量がずんずん上達するとかはなくなってくるので、「自分のこれまで」を誇る以外に脳が無くなる、って理屈だ。
それを知ってか知らずか、講釈垂れるは、盾マスターの盾談議。
盾マスター(以下盾)「くくっ......(悪い笑み)。我が家宝の竜紋盾。この巨大さをもって半身を隠す(よっこいしょ)。また自在に構えるこの膂力をもってすれば、いかなる剣も槍も我が身を傷つけること能わず!」
黒魔術師エヴィル(以下エ)
「はーん。確かに左半身はほぼ盾に隠されている。半身になれば、盾に隠れないのは右手の短槍と覗き見る目くらいか。
これは確かに狙うのは難しいだろうなぁ。こっちが攻撃モーションに入ったら残り右半身引っ込めりゃいいんだし」
青年は一応話に付き合ってあげている。
それを知ってか知らずか、講釈垂れるは、盾マスター。
盾「ほほぅ、黒魔術師。勇猛さを介さないようなひょろ輩にもこの盾、そして我が御業......戦略戦術の偉大さが理解できると見える」
エ「(ツッコミどころから目をそらしつつ)戦略戦術はただの計算であり、勇猛さが必要とか初めて聞いたわ。最初から属人性の高い不確定要素を取り入れてどうするよ......メモメモ(この青年、面白い発言はメモする癖がある)
......それで、偉大なワザ?ってやつだが......そうだなぁ、広い世の中、それをしのぐ達人なんて幾らでもいるし、早い話がおまーの目の前にいるし」
盾「小娘でも剣を持って眼前に立てば敵。物の数にもならんが我が功の端にでも並べてやろう」
エ「とりあえず、口上としてはこんなもんでいいかな。じゃあ時雨先生、出番です」
剣聖少女時雨ちゃん(以下時)「......え? てっきりエヴィル君がやるのかと思ってたよ」
エ「そこはほら、どう考えても俺様が圧勝しちゃうだろ。面白くないだろ」
時「面白いとかどうとかそういう話かなぁ」
エ「なんなら二人同時にでも構わんぞ。まず小娘を片付けてから、遠間にしか立てない魔導士を始末してやろう」
エ「それ弓使いにも言おうや」
時「うーん......結局、私がやるのかな」
エ「時雨君の方が近い」
時「厄介払いだよね、それ。......まぁいいや」
恐ろしいほど何の力みもなく刀を抜く時雨。
構えも取らず、ついっと妖刀・落葉(らくよう)を持ち上げる。
流石に講釈も無くなった盾自慢。油断なく盾を突き出し、自らの体をその後ろに隠す。
事ここに至っては、何の合図もいるまい。
しかし、クドクドした言葉遣いの割にはイマイチ知性の感じられない会話の流れに退屈を覚えていたエヴィルは、あくび交じりに足元の小石を蹴った。
ひょいっ、
かつん......
ーーーがらん。
結果として、「元」盾自慢の眼前に、時雨は立ち、落葉をゆっくりと鞘に納めており。
かちん。鍔鳴り。納刀。
男が構えていた盾は、真っ二つに割れて、地に落ちていた。
時「そもそも、絶対に盾が割れない、って話じゃないよね?」
エ「......いやいや時雨君。俺様があんなに『隠れてる相手を狙うのは至難』って話を振ってるわけじゃないか。その辺は拾ってくれるべきじゃなかろうか」
時「できて当然、って【振り】を拾っても面白くないんじゃない?」
エ「そもそものお題がイマイチだった時点でダメかー。【善き問いは良き答えに勝る】ってのはこのことかー」
時「格言の良さが薄れていくね、あはは」
元盾自慢、茫然自失。
確かに自慢するだけの事はあり、木板になめし皮、さらには鉄板を2層にも重ねた大盾であるからして、頑健さは今更語るほどのこともない。
傷をつけることはできたとしても、割るとは......否、この手に伝わった感触は......「切る」のそれであった。
彼の驚愕、想像の埒外だったのは言うまでもない。
時雨からすれば、銀コーティングだの、二層だのといったところで、動かない「板」をどうするか、など考えるまでもない事で。
速度がのった刃を最適な角度で接触させるという技。断面接触の角度の調節の技。そもそもの速度の圧倒的......どうとでも「切る」事はできるので。
時「......エヴィル君の話にのるのはシャクだけど、考えればもう少し面白い事はできたかな」
エ「そうそう。的確にあいつの爪だけはがしたり」
時「え。めんどくさい。エヴィル君がやりたいだけじゃん」
エ「さいですか」
時「切るって事に固執せずに、爆発させたり、粉砕したり...まぁそういうのもあったかなって」
エ「『気』かー。それは後学のためにも見ておきたかったな」
元盾(以下略)は、完全に二人の意識の外に置かれてしまっている事を自覚していたが...流石に「油断したなこのボケがー!」と槍を突き出すほどゲスではなかった。
というより、さっさと逃げたかった。もう何もかもやる気がなくなっていた。夏コミでコミケ会場直前まで来ていて、財布の中身がカラっけつだったら、もう帰るだろう。居たくないだろう。手持ちのSUICAでどうしろっていうんだ。
......あぁ。なんでこんな往来で領民いびりなどやっていたのか。
ここにいなければこんな通りすがりの変な二人組になど関わらずにすんだだろうに......。
無我の境地に至るほどの集中力で、全力後悔してる盾マスターである。
そして時雨とエヴィルは「かっこ面白い盾の壊し方」についてあーでもないこーでもないを議論するのであった。
......なお、この盾マスター、その後ずっとしてから、
「言葉遣いは仰々しいが、割と内容がない話をする酒場のマスター」
として、町の酒場で人気者となる。
割られた盾を、ヤケっぱちで防具屋に売ったら、わりとびっくりするほどの値段で買われたからだ。
この時の盾マスターの感情は二つ。
(1)えっ、こんな状態でそんな高額になるのか!
(2)家宝が売られていく......嗚呼......嗚呼......!
で、さらに後になって知ったことには、この防具屋は情けでこうしたのではなくて、よく出来た盾を手ごろなバックラー(小さい盾)に再改造。その際に盾の構造を熟知し、この重層構造のバックラーを安価に大量工場生産し、大儲けをした。つまりは初期投資であった。
この時の盾マスターの感情はさらにひとつ。
(3)ヤ・ラ・レ・ター!!
この時のショックで、戦士としての矜持が根底から折られ、これ以降は一市民として生活していこう、と思ったとかなんとか。
......当時、私が真が真に戦慄したのは、もちろん盾マスターではない。この防具屋である。彼は「高い性能を持つ防具を、大量生産システム化を基にして、不労所得を得る」という目論見をしていた。防具屋の頭にはこのように「ラクして儲かる」術の絵が描けていた。必要なのは、「良き防具の設計図を超安価で!」だった。それさえあれば、あとはシステムに乗せればいいだけのこと。
防具屋にとっては、盾が家宝だとか、割れてるとか、そういうことはどうでもよかった。むしろ割れてるということが、バックラーとしての構造デザインのヒントにさえなった。さらには適度に小さいということが、余計に売れるタネとなった。
教訓は一つ。「頑張れば強くなる」のではない......「周到な準備をした上で、炸裂するようなタイミングでbet(投資)すれば、経済は恐ろしく回転し、強くなる」ということだ。
かくして、この防具屋は、
(1)普通の市民が一生かかってようやく得られるだけの財産をほぼ半年で得た。
(2)「防具の歴史」を紐解くに、この地域の防具のレベルが3LVくらい上昇した。
こうして、剣聖は鼻持ちならない二流をぶっ潰したが、意外にその後、華が咲くこともあったのだなぁと。風が吹けば桶屋が儲かる。ただし桶屋は計算に次ぐ計算を周到に進めていた......。
ーーだが。さらに言えば。
私はかつて、この不労所得の防具屋を「うまいことやるなぁ」とは思ったが、今の視点から見ると、「1を100にした」だけに過ぎないのではないか?と思う。
恐らくは......。
「0から、恐るべき1」を作った、この盾の製作者と。
その恐るべき「1」を、本当に何でもなく斬ってしまう才能と技を持った時雨君という。
「凡人の群れ」の中からは生まれ出ないこの二つの異才ーー異常才能ーーこそが、今なお、私の理解を超える。
だから。
私がこの第12巻「英雄と悪漢」編で書こうとしている人物伝は、私の理解を超えていった者たちについて書こうと思うのだ。
ーーエヴィル・レッド『レッズ・エララ神話体系』第12巻「英雄と悪漢」編より「その盾は何をもたらしたか?」
]]>レイルソフト「紅殻町博物誌」と、10mile「カタハネカタハネ ―An' call Belle―」について、この夏、全力を尽くしてかなり相当長く(当社比)しつこくしっかり書きたいと思っています。 お暇でエロゲが好きな人は読んでくださるとうれしいです。序文だけで1字は超えます。
-- 残響 (@modernclothes24) 2017年7月28日
誤字がありますね。
はぁ自分は残響っていいますけど、この名前ってそもそも自分で名乗ったわけじゃないんですよね。人から言われて定着した略称、あだ名、ってやつです。this is...this is あだ名......(このくだり必要ありませんね)
自分がネットにカキコもとい書き込みをし始めたのは(これを言い直したのは現状2017年のなうではカキコなんつう言葉がインターネッツ古代語に属するからです)、おおよそ2008年あたりからなんですが、その時にじゃーハンドルどうすっぺ、と、約20分考えてつけたのが「近代衣服の残響」っていうハンドル名なんですね。
「近代衣服の残響」
おい文章かよと。その枕詞はなによと。
多分当時、なんらかのシュール系のアート表現にハマってたのだと思います。たしかマックス・エルンストのコラージュ画集みたいなのの文庫版(『百頭女』とか)を漁っていた記憶があります。
そんな「人にハテナな違和感を与えればそれはもう価値なのだー!」式のトリックスター思考をヴァンヴァン働かせてつけた名前が「近代衣服の残響」でして、当然ながらこういう名前に、なんらかの意味とか由来とかはありゃしません。語感とインスピで生まれた言葉ですから、人にそこんとこの由来を問われても「さぁねえウフフ......」とこたえるほかはありません。やっかいやなー
んで、そんなんでハンドルネームを決めて、都合1.5年くらいはインタネッツで活動をしていたわけですが、だんだんとしんしんと雪が降り積むように指摘されるようになったのですね。
「アナタの名前は読みにくい、呼びにくい」
って。
実際のところこれって結構インタネッツ日本人心理距離感としては、言い出すのに勇気がいりますよね。人様の名前なわけですし。相手が「ぬるかん」だの「ギルティおこめ」だのいう名前でも「否」を告げるのはさすがにためらう。
でも、複数の方々が勇気をもって「アナタの名前は長くて呼びにくい」と告げてくれるようになり、さすがにこの名前がちょいとアカンのではないかと考えました近代衣服の残響さん。っていうかこうして打鍵してみて、改めて思ったけど、確かに書きにくいは呼びにくいわ、で大変ですねこりゃ。ああ、告げられる9年前の真実......ポストトゥルース......(意味をわからずに言っています)
(そのころ付き合ってたネットの人たちとは今も付き合っています。自分にとってとても大事な友人たちです)
そんなわけで、人からは縮めて「残響」って呼ばれるよになりました(ありがたくもわたくしに許可をとっての縮め)。そしていつしか自分も「残響」と名乗るようにしました。2009年の終わりから2010年あたりからかなぁ。今、「近代衣服」の名残があるのは、自分のTwitterアカウントや、ブログアカウント、百合機械HPアドレスであるところの「@modernclothes24」ってとこですね。そこだけですね。未練があったのかどうかは知りませんが、とりあえずこの英字文字列を自分の英字ハンドルめいたものにしてます。
さて。一応残響ということに自分の名前をしまして。先の苦言(読みにくい......)を呈してくれたネット身内だけでトークしてる分には、一向に問題なかったこの残響という名前。
その後、自分がテリトリー......というか活動・交流範囲を、ネット身内の他にも求めるようになっていったのですね。例えば音楽評論とか。例えばエロゲー批評空間界隈のクラスタとか。そこで気づいたのですが、「残響」って一般名詞、よく使われるのですよ。
例をあげるだけでうへぇ......とおもうのですが、
「残響リファレンス」(One OK Rockのアルバム名)、「残響レギオン」(少女病のアルバム名)、「残響レコード」(インディーズレーベル名)、
「雨き声残響」(ボカロ曲名)、「エフェクターの残響が......」(音楽機材でよく使うワード)、
「残響系エフェクター」(音楽機材ワード)、「残響のテロル」(アニメ名)............
......オーマイガー。自分が適当に付けた名前でも、「〇〇の残響、とは違う残響さん」というふうに人から紹介されることが多くなりました。
さらに言うと、自分以外にもこの「残響」という名前を使ってるネットユーザーやクリエイターのひとがいるっていうらしいです。同名他者なこちらの意味でも「〇〇さんとは違う残響さん」って紹介されるのを耳にすることがありましたから。
あーあ。
もちろん一番悪いのは適当そのもので名前を付けたわたくしにあるわけですが、かれこれもう7年以上も「残響」で通してきたから、今更変えるのもなぁ、っていうところです。
それはそうと、今になってようやく「雨き声残響」っていうIA(ボカロ)の曲を聴いてみたわけですが、いい歌じゃないですか。多分この曲のタイトルつけた作者のひとは「残響」って言葉にけっこうな意味を持たせている、大事な言葉だったんだなぁと思います。喪われ虚空に響いている音感覚(残響)のあとで、一気に世界が変わるようなPV/曲の演出なんかひとつ考えてみるにつけてもね。
それに比べれば自分の残響っていう名前の適当さは、名前負けしてるわなぁと思うのです。
深みのないところに残響(一般名詞)はないわけです。残り響く、というのはそういうことです。喪失感であったり、響きの余韻であったり。そう、「あの響き」があまりに鮮烈だったからこそ、余韻が確かに聞こえて切ないのです。悲しいのです。誇りすら感じるほどに。
そーんな意味性を持つ残響っていう一般名詞をハンドルとしてかれこれ7年は経ちましたが、さてねえ。これはもう名前負けってやつです。
深みがない自分っていうのは自分にとって一つのテーマかもしれません。自分は深い人間なんだぜというところで自分のアイデンテテーを思っている自分ですが(恥ずかしいなぁ)、そう思ってる時点で自分の薄っぺらさを感じ取ってはいるのですね。薄暗いところでいつも感じているのさおれの薄っぺらさは。
だからまあ、お前は軽薄なんだ、とか、お前は薄っぺらい深みの無い人間なんだ、と指摘されて、ギャーとムカっ腹を立てるわけですが、その反面「そうなんですよ......」と薄暗闇に存在する自分はパチ......パチ......パチ......とやる気のない拍手を死んだ目で行うわけです。
まあ人がどう思うかはいいや。自分がどう思っているか、っていうことに語ろう。
長い年月を名前と共に過ごすと、もう自分の名前の意味性ってものを考えはしませんよね。皆さんの本名であったり、ペンネーム、ハンドルネームであったりも、それ相応に何年も同じ名前だと、もう慣れ切ってしまって、考えることもなくなります。己の名前こそに本質的意味があるんだー!という文学者・思想家・哲学者・神学者であってもなー。
でも、名前ってもともとどういうものだったんでしょうかね。呪いのようになってる人も居れば、自分にはこの名前あってないなぁ、と思うひともいれば。それでもこの名前と共に生きてくほかないんだから、せめて「〇〇って名前にふさわしいようになれればなぁ」って思えればその人はすげえ立派ですが。なかなかそういうふうにはなれんよね。
「ああそういえば、自分の名前っていうのはこういうものだったのだなぁ」っていうふうに、ふと星が邂逅するかのような時折さで思って、うーんうーんと頭をひねって。その時の夜空がずいぶんきれいだったなぁってことを感じて。それでまた、明日からの生活でそこらへんを98%は忘れてしまって日々を生きて、また星が邂逅するかのような時折さで自分を思ってみたりして。
ガラクタに囲まれて生きてますよ我々は。その山のようなガラクタには電柱とかガス灯とかがあったりして、夜になったら優しい光を放つんだ。空気は妙に澄み切っていて、明日世界が終わるなんて言われてもそーんなに不思議には思ったりしないほどの。そこに独り、ぽつんとたたずんでいます。
「自分の名前」というのを考えるにあたって、心に想起したのはそんな風景ですね。水彩画のように夕暮れが薄らいでいって、宵の藍色が迫ってきて。星はぽつぽつと輝いていて、なんだかボヤケた風景です。時間性なんてものはありゃしないなぁ。
自分の生命が、生きた証が、ガラクタかって? まあ他人にしてみりゃあそんなもんかもしれませんが......
それでもまあ、自分=残響さん、としてかれこれ何年も生きてきて。リアルの自分よりも「残響さん」は交流の幅は広いし、深いし。リアルおれ:ネット残響、の比率が、だんだん後者が大きくなってきますね。
それがいいことなのかどうかはわからねど、自然にこうしてきちゃってるんだからしかたあんべえ。人生なんてそんなもんだ。
時たま思うのが、ハンドル名をそのまま敬称なしで呼びあう付き合いのひと達っているじゃないですか。
ところが自分は、どこに行ってもありがたくも「残響さん」なんですよ。皆さん敬称をつけてくださる。ただ、それはどこかで、距離を置かねばというか、「アッこいつには迂闊なこと言えんぞ」というあたりの敬称(距離とり)かもしれませんが、まあ。
それにしたって、敬称をデフォルトにしてくれることはありがたいですが。
あまり気にすることもないですが、さりとてこちらからサーチを働かせているわけでもないので、「残響さん」がどういう人なのか自分でもわからないのです。自分で自分のことがわからない、ってアタシ変よね......ヘンだよねアタシ......うわあぁあぁん!!(少女漫画感
というか、未だに自分のことがよくわかってないからこそ、こうしてネットに乗せる文書を書いてます。瞑想をする代わりに、文章を書いて自分を見つめてみる。
「残響さん」は誰かにとって何かの意味を持つ存在だったのかな? って改めて思うくらいには、自分の残り人生も少なくなったか、とか、自分もヤキが回ったか、とか。っていうかお前さん自分自身についてしか語ってないな......。いや、まあわたしはいろんな他者よりも、基本的に自分自身に興味がある人ですし、残響は。ナルシーですね。
だから自分の書いた文章には、とりたてて皆さんに与えられる価値って、「ない」と思ってます。
それでしかし、たまーに誰かに好意的な反応を頂くと(最近、何回か立て続けにあった)、「えっ?(後ろを振り向く」ってな感じで、残響自身のこととはあんまり思えなかったりする。自分を見つめて自分に対する答えを探ってるような文章が多くて。この「名前の由来」テキストなんてそのまんまですしね。
ともかく、前にもどっかで書きましたが、自分のことをあまり考えず、自分について調べていけたらな、っていうか。わかってくれよぉ的な自分語りは醜いけれど、「ええと......自分は自分のことがよくわかってなくて、ちょっと書いてみます」っていうのは、まだ罪が少ないように思える。というか「知らんわ」度合いで言ったら他者の理解も自分の理解も「知らんわ」で同一なんだから、別にいいか的な。
残響自身には、こういう文章は自分自身では面白い(自分にとっての意味がある)けども、さてどうなのか。
少なくとも、ここから何かを見出せたあなたがいたとして、あなたの知性と感性はほんと凄いと思います。こころから。
トィクル(Toycle)という食物をご存じだろうか。知らんわな。何と言っても人間には縁の無い食物であるから。
これは、吸血鬼が、血が吸えない時に食すものである。
ご存じ、吸血鬼は血を吸うからして吸血鬼であるが、そんな吸血鬼でも血が吸えない状況というのがある。人間が側に居ない時だ。だから、そんな時は「やむなく」このトィクルを食す。
トィクルの形は、とても形容しにくい。何せ、ひとときも留まることなく色が変化するのである。だいたい文庫本半分くらいの大きさのガス状の物体......気体なのか? 手にはとれるが、べたべたはしないし、質感もない。そして、ぼやけた虹色が毎秒ごとに変化する。ガス......そうだな、形状はガスに近い。だが昔の人はさすがに言語に優れたもので、トィクルを「血の霞(かすみ)」と呼んだりもした。霞。そう、霞を食べる仙人からの連想であるが、そのアナロジーはきわめて的確であった。
吸血鬼は、そんなトィクルを「やむなく」食す。
トィクルの味は、一般的な吸血鬼に言わせると「論ずるに値しない」そうだ。処女・血潮高き青年の血液の鮮烈で芳醇な味を至高のとする吸血美学においては、トィクルはあたかも我々の食生活におけるカ●リーメイトプレーン味のようなものと言って差し支えない。そこまで処女・青年の血は旨いのか? 一説には年代物のワインなど稚技、とまで言わしめる圧倒的愉悦、らしい。まあそれに比べれば確かにトィクルはカ●リーメイトだろう。
ただ、やはり吸血鬼といえども、永久機関ではない。だから、人間の居ないときには、やむなくトィクルを食す。
筆者(わたし)は先ほどから、たびたびトィクルを食さねばならぬ状況、すなわち「人間がいない状況」と前提してきた。しかし、この状況はおかしくないだろうか? なぜなら、人間の居ない所/時、というのが、そもそも現在において存在するのだろうか。それほど、人間は生育範囲を広げているのである。
そして、その生育範囲における強者として、吸血鬼は存在するのである。捕食者。そうだ。だが、それは裏を返せば人間存在に依存している生とも言えるのだ。
何せ吸血鬼は、
(1)血液>>>>>>>(2)トィクル、>>>>>(超えられない壁)>>>>>(3)人間の食物
というお粗末な選択肢の食文化しかないのだから。水を飲もうにも、川や池の前でかがんで、水を汲もうとして、後ろからヤクザキックで蹴飛ばされたら吸血鬼は終わりだ。流れる水に吸血鬼が抗えるはずがない。 よって、いつの世も吸血鬼は生殖に失敗する。水ひとつ持ってこれない生き物って何よ。だから、吸血鬼は人間を支配するしかないのだ。これを依存と言わずして何という。
ちょっと話がずれた。それだけ依存している人間。そして人間は至るところに居る。人間は至るところに居ることが出来る「汎用適応性」ゆゆえに霊長類と呼べるのかもしれない。口悪く言えば、メシ食って水飲んで屁こいてまぐわればどこでも生活出来るのが人間である。
そこまでこの世のどこでも生活出来る人間、が居ないところーーというのは、「どこ」なのだろうか。何せ地獄のメインは人間である。冥界の魂のメインも人間である。どこだよ。
ーーそれは、神話戦争の世界だ。神的存在との戦の場、といえる。
神と戦わねばならぬ場合、っていうのがある。対決せねばならない。そういう所に、人は居られない。弱きヒトなど居られるはずがない。オーラひとつだけで凡人は気を失うくらいなのだから。発狂? まあ普通だわな。600番紙やすりくらいに普通だ......。
とにかく、こういう場。神との対決の場、に、人間は居られない。そしてそんな場に長時間居るのだったら、吸血鬼も血が必要ではあるが、人間が居られないんじゃねえ。革袋に血液を入れてても、すぐに腐るし。「だから」こんな時の為にトィクルがあるのである。
もっとも、厳密に言えば人間がいないわけではないが、こんな場に居られる人間は、大抵の吸血鬼よりダンチで強い。勇者とか言われる存在だ。さらに言えばお察しのように、「神」とか「勇者的に強い人間」が居て、じゃあこの場の吸血鬼の力量的ヒエラルキーって何なのよ、って話だが、まあ「普通」だわな。
さあ吸血鬼よ、どうするか。トィクルを食いながらの地道な戦を神と続けなくてはならない。しかし、地道といったら人間に敵うものはありゃしねえ。これまで短絡的に人間を貪ってきた吸血鬼だから、種族的に「我慢」というものを知らないのだ。
さあ吸血鬼よ、どうするか。人間に学ぶか。食物と思ってきた下等な人間に!
さて、そんなトィクルであるが、どうやって生成されるのか。原料は何か。野菜とか肉ではないことは確かである。
結論から先に言えば、これは「神のゴミ」である。神というシステムは、この世のあらゆるモノや命というものを生成する。太陽を想像してもいいし、そのエネルギー生成構造たる核分裂、を想像してもいい。
そう、核でエネルギーを生成しようとしたら、お察しのようにゴミが出る。それがトィクルである。
神が生み出すモノ、命、とは、言い換えれば「優れた物語」であり、「神話」「伝説」とも言える。「生命誌」とはそういうことだ。ひとはモノを取り、命は己を燃やすことによって伝説を、神話を生む。この世に何かの証を刻む。ひとがそのようにして活躍するからこそ、この世は輝くのだ。人間が信仰する神も素晴らしいかもしれんが、実際のところは「信仰しよう」とする人間の心持ちそのものこそが伝説なのだ......。
「それに比べればトィクルとは実に二流に他ならない」。
何しろモノ、命を生むに至るためのゴミなのだから。よってトィクルの持つ物語、というのは。トィクルという物語は。常に二流のパルプ・フィクションである。これでは霞よりタチが悪いではないか。
トィクルとは常に余剰のゴミである。吸血鬼はそんなトィクルを食し、神と戦う。この時点でかなり負け戦であるが、筆者(わたし)が指摘したいのはもっと別のところで......
果たして、トィクルを侮蔑しながらやむなく食し生きるところの吸血鬼は、果たして「文化」というものを持つ事は出来るのだろうか? 筆者はかなり疑問に思う。吸血鬼は神的存在との戦いのなかで常に「普通」であった。そして、吸血鬼の歴史というものは、ほとんど一冊の書物も残していないのである。吸血鬼は、一冊の本も書くことの出来ない、文化的にゴミの種族ではないのか? わたしはそう思ってならないのだ。
ーーセリゼ・ユーイルトット『続・レッズ・エララ神話体系(仮題)』第三巻・自然科学地政学篇より「トィクルを食す」
......
............
..................
セリゼ「どうよ!?」
フレア「このような事実はじめて知りました。しかし海にまで来て原稿書きますかね」
月読「シュールじゃのう、水着を着て原稿を渡す吸血鬼」
フレア「案外似合っているのがハラが立ちます」
セ「ハラ立つって何ぞや......」
フ「出てるところはきっかり出てたんですねセリゼちゃん」
月「いつも礼装だからのう。何の意識改革があった?」
セ「ん-、まあ......」
といって海の方を指さすセリゼ。そこではキギフィとミズが波打ち際でキャッキャウフフと遊んでいた。
セ「なんちゅうかな、ミズがいなかったらこういうの着て一緒に遊ぼう、って気にもなんなかったけど。してやってもいいんじゃないかな気になった」
フ「母親ですねぇ」
月「文化じゃな」
セリゼは驚いた顔をした。
セ「これがか?」
フ「そうですよ」
月「だいたい、お主がミズに読ませるために、エヴィル・レッドの『レッズ・エララ神話体系』を引き継いで書く、しかもラノベ調で、っていうの自体、文化じゃろうが」
セ「でも趣味だし......」
フ「え......セリゼちゃん、バカじゃないですか?」
セ「ものっそい事実を告げるように言うなぁお前!」
フ「趣味が文化であり、文化は趣味に他ならないじゃないですか、何言ってるんですか!?」
セ「......あー......そういうものか......」
月「精進せえよ吸血鬼」
そしたらミズがこっち寄ってきた。
ミズ「おかーさん、一緒に遊ぼうよ」
セ「え、海でか、私? 吸血鬼だぞ?」
フ&月&ミ「何言ってるのこのひと......」
セ「いやほら流れる水とか太陽とか。あ、それから屋台の焼きそば、気を利かせてフライドニンニク入れてたし......」
月「お主全部大丈夫だったじゃないか」
ミ「......ダメ?」
その寂しそうな瞳に抗えない母であった。
セ「うーん、じゃあ、行くか。しかし私はどうすればいいんだ。あの渚の核爆弾こと、金髪水着美少女の狂った美貌をハリっ倒せばええんか」
ミ「普通に遊ぼうよ。......でも、お母さんのその水着、似合ってるよ?」
セ「そうかいな?」
そんなこんなで娘に手を取られて波打ち際に遊びに行くセリゼなのであった。